テレビアニメの方の「ドラえもん」は、「日常」の中に「非日常」的な異物「ドラえもん(の秘密道具)」があり、物語構造は日常の困った出来事を「非日常」的存在によって、日常に変化を与えることで成立している。しかし、それはあくまでも「日常」の中でのドラマが基本にあり、ドラえもんがいようといまいと、のび太の「日常」は繰り返されていく。テレビアニメシリーズに限らず、テレビドラマシリーズもまた「日常」の連続がドラマ構成の基本で、主人公が「非日常的な事象」が起こったとしても、繰り返される物語によって「非日常」な事象もまた「日常」の物語へと回収されていく。
しかし、「映画ドラえもん」では、のび太たちが「非日常」世界へと「冒険」することで、「非日常」な物語との対峙を迫られる。「日常」という作品世界にありながら、もしくはそこから飛び出すことで、結果「非日常」の物語に介入せざるを得なくなるというのが、「映画ドラえもん」の基本構造であり、その物語は必ず何らかの決着を迎えて、のび太たちは「非日常」な物語から「日常」世界へと帰還する。
つまり。僕の中の仮説のひとつとしてテレビアニメとアニメ映画の決定的な違いを上げるなら、「日常」と「非日常」の主従関係が逆転することにあるのではないかと思う。テレビにおいては「日常」が主で「非日常」が従、映画は「非日常」が主で「日常」が従である。
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金曜日 9月 23rdに公開