「型破り、ってのはすべての型が出来てるからやれる、
一世一代のバクチでね、
何も出来てないヤツが、無茶やるのは、
型無し(形無し)っつって、恥ずかしいことなんだ」
至言也。
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2011-08-15
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Via pyankoのTumblrウェブタブレットを「実用的ではない〈チープなオモチャ〉」と呼ぶPCユーザーがいます。その一方で、「欲しい」「私にも使えそう」と期待を隠せない〈ノンPCユーザー〉もいます。このように既存製品を使いこなす人と、そうでない人で評価が分かれるのは、破壊的イノベーションに典型的な現象です。
– ウェブタブレットという〈チープなオモチャ〉が破壊する家庭用PC市場 (via fwadala) Via rk.insight就職して4年目になる友人たちと飲んでいたとき,遅刻の話になったことがある。「お前の会社ってどのくらい遅刻とかある?」という質問に対し,証券会社に勤める友人は,「ここ1年誰もしてない」と答えた。メーカーに勤める友人も深く頷いていた。少しランクの劣る会社に勤める友人が,「俺結構遅刻しちゃうなあ」と遠慮がちに発言すると,証券会社とメーカーは信じられないという体で,低ランクを責め立てた。しかし,1年間誰も遅刻しないという状況こそ異常ということはないのだろうか?
今,会社に勤める友人たちは驚くほど会社に従順だ。無遅刻無欠勤を当たり前のように続け,早出残業も笑顔でこなし,酒の席で先月の残業時間を誇る。始発で行って終電で帰れれば御の字だそうだ。なんだそりゃと思う僕の考えこそが甘いという。経営者から見れば,素晴らしい社員であろう。そして経営陣からの要求は過激さを増す。そんな気がしている。
ルールがきつくなればなるほど,人々は寛容さを失う。これは間違いないと思う。自分がルールに縛られていれば,他人もルールに縛られて欲しいと思うのが人情だ。現代人は,僕の見る限り相当ルールを守って生きていると思う。そして,寛容さを失っていっている。その様子を,大学に勤めるある友人が,「お互いに首を絞め合っている」と表現していた。言い得て妙だと思う。僕はこういう状況を「体育会系の論理」と呼んでいた。
どちらにせよ,ルールでがんじがらめになった人々が,10年後何を成し遂げるのか。日本経済は復興するのか,没落するのか。必死で働いた人々の幸せはどういう形で訪れるのか。日本は,過去,会社の奴隷となって日本経済を立て直した父親を家族が見捨てるという現象を経験している。今死ぬほど働いているのはその父親の子どもたちの世代だろう。父親のそんな姿を見てなお今のような行動をとっているのだから,同じ轍を踏むことはないのだろう。そこらへんのロジックには非常に興味がある。今の僕には,よく分からない。
– ドタキャンばかりする人々と,何年でも無遅刻無欠勤を続ける人々 - 諏訪耕平の研究メモ (via fwadala) Via rk.insightおっすオラ元関係者!
絶対無理。
予算とか視聴者層とかの問題以前に、
テレビマンが馬鹿ばかりになったから。下請け含めて。
視聴者舐めて番組作ってるうちに、ガチな番組が作れなくなった。
もうPからしてマトモな企画を頭の中で構築出来ない。
自分がやってきたフォーマットに当てはめて番組作るだけ。
まともな人材がテレビ局から逃げてるのもあるかもね
アニメオタクの人が「●●君ってオタクなんだー。じゃあAKBとか好きなんでしょ」とか言われたりするのは、プログラマが親戚のおじさんに「機械に強いんだろ?ちょっと洗濯機直してくんねえか」って言われるのに似てる。
– Twitter / @tsukampo (via katoyuu) Via pyanko_nowTwitter / @tsukampo (via pinto)
「私って何歳に見えます?」と聞かれ……すぐある予感が走った……この勝負運否天賦じゃない……おそらくは……愚図が墜ちていく。勝つのは智略走り他人出し抜ける者……!
(via petapeta)
Via げき@たん/ES's etc.インターネットのここ数年の傾向として、先進的なユーザの中に「無駄なことは大好きだけど非効率的なことは大嫌い」てのがあったと思っていて。
– 2009-07-25 - matakimika@d.hatena (via otsune)2011-01-17 (via gkojax-text) Via げき@たん/ES's etc.
僕は今回の案件で、システムのレスポンスに徹底的にこだわってる。
それには理由がある。
それは、プログラマの誇りを見せ付けたいからだ。
この案件は、既存機能をコピーして似た機能を作るというものだ。
既存機能は、Webシステムなのに1アクションで
1分や2分以上のレスポンスタイムはザラで、
悪いときには数分後にタイムアウトして、
さらに悪いときには、アプリケーション全体をロックしてしまっていた。
顧客はそれでも我慢して使っていてくれたそうだ。
今回の改変に、顧客がパフォーマンスを要求するのは当然だった。
それにしても酷いアリサマだとコードを見てみると
酷い。
確かにパフォーマンスは出ないのも無理はない。
いや、それどころか僕は、このSI業界の問題を感じざるを得なかった。
この機能はそこそこ難しく、業務的にも重要だ。
しかし、そのコードは、新人~3年目ぐらいのプログラマが書いたとしか思えないコードだった。
例えば、
・Stringを+でツナギまくってパフォーマンスが激劣化していた。
・SQLで、よく考えれば要らないJoinが山ほどあった。
・すべてMapで引数を取り回し、Mapの中身はすべてStringに置き換えられていた。
・数字もDateもStringだ。
・1000行以上もあるSQLは、適切にインデント付けされておらず、読むことすら億劫になる。
その他、Sessionの使い方、クラス分け、変数名の付け方、コメントの書き方に至るまで、
新人が試行錯誤して作った跡が見られる。
この業界の問題、それは
プログラムが、新人~3年目の作業と位置づけられていることだ。
僕はこの認識を変えたい。
だから徹底的に、スキルの差によってどれ程のパフォーマンス差が出るか示したいと思った。
自慢したいわけではない、
10年近くコードと真剣に向き合ってきたから、
新人~3年目に負けるはずはない。
このコーディングに際して、まず徹底的なリファクタリングから取り掛かった。
SQLを読みやすくインデント付けし、Mapを取りやめて適切な型のオブジェクトにし、
StringBufferをつかって、Joinを削った。
作り直したといっても良い。
もちろんチューニングは徹底的に行なった。
実装工数の三分の一を使った。
先週まで、1アクション3秒の壁を越えられなかったけど、今日2秒を越えた。
検索自体は、0.5秒以内。改修前は、早くとも30秒だったので60倍の高速化だ。
最もパフォーマンス差が出たアクションでは、1000倍以上の差となった。
これを顧客に納品する。
今まで、1つ1つのアクションに対してイライラし続けていた機能は、
サクサクと動くようになる。
この機能は、サクサク動くと業務上の使い道が大きく広がることは間違いない。
顧客は感じてくれるだろう。
サクサク動くことの快感を。
顧客は疑問に思ってくれるだろう。
「なぜ既存機能よりも情報量の多い、この機能がこんなに早いのか?」と
そして問い合わせてくれたら良いと思う。
なぜこの機能はこんなに早くて、
他の機能はウンザリするほど遅いのかを。
そのときには、答える。
プログラミングスキルの差としか言えませんと。
新人~3年目が悪いわけじゃない。
ベテランがコードを書かなさ過ぎる。
僕のスキル程度は、ザラに居るはず。
しかし彼らは、設計書のメッセージIDや、設計書更新日付の整合性や
フォントや罫線の切れを合わせるのに貴重な労力を割きすぎるんだ。
システム開発は、顧客の要件を実現するサービス業だ。
要件の実現がキモなのに。
実装がキモなのに。
なぜ、ベテランが頭だけやるのか。
僕にはどう考えても、理解不能だ。
今回、僕は頭の先から尻尾までやった。
それが普通であってほしい。
– プログラマーの誇りを見せ付けろ - 山本大@クロノスの日記 (via petapeta)2009-02-12 (via gkojay) (via hepton-rk) (via puruhime) (via es-s-etc) Via げき@たん/ES's etc.
どんどん変わる人は、むしろ「変わらないですね」と言われ、
変わろうとしない人は、どんどん変わり果てていくものだ。
2010-10-14 (via gkojax-text) Via げき@たん/ES's etc.
テレビアニメの方の「ドラえもん」は、「日常」の中に「非日常」的な異物「ドラえもん(の秘密道具)」があり、物語構造は日常の困った出来事を「非日常」的存在によって、日常に変化を与えることで成立している。しかし、それはあくまでも「日常」の中でのドラマが基本にあり、ドラえもんがいようといまいと、のび太の「日常」は繰り返されていく。テレビアニメシリーズに限らず、テレビドラマシリーズもまた「日常」の連続がドラマ構成の基本で、主人公が「非日常的な事象」が起こったとしても、繰り返される物語によって「非日常」な事象もまた「日常」の物語へと回収されていく。
しかし、「映画ドラえもん」では、のび太たちが「非日常」世界へと「冒険」することで、「非日常」な物語との対峙を迫られる。「日常」という作品世界にありながら、もしくはそこから飛び出すことで、結果「非日常」の物語に介入せざるを得なくなるというのが、「映画ドラえもん」の基本構造であり、その物語は必ず何らかの決着を迎えて、のび太たちは「非日常」な物語から「日常」世界へと帰還する。
つまり。僕の中の仮説のひとつとしてテレビアニメとアニメ映画の決定的な違いを上げるなら、「日常」と「非日常」の主従関係が逆転することにあるのではないかと思う。テレビにおいては「日常」が主で「非日常」が従、映画は「非日常」が主で「日常」が従である。
– アニメのミカタはどこにいる - 虚馬ダイアリー (via katoyuu) Via げき@たん/ES's etc.