■観光社会学の対象と視点
A・ギデンズによれば、伝統社会の人びとがローカルな状況に埋め込まれていたのに対し、近代社会の人びとはローカルな状況から引き離されるのだとされる。ギデンズはこれを「脱埋め込み化」とした。
観光をめぐっては、「ツーリスト」「プロデューサー」「地域住民」の三つの立場がある。
E・コーエンは観光経験を「気晴らしモード(日常からの脱出)」「レクリエーション・モード(心身の疲労をいやす)」「経験モード(生活様式や価値観を経験)」「体験モード(生活に参加・体験)」「実存モード(永住)」の五つのタイプに分けている。
G・ドグシーによる「イラダチ度モデル」によれば、観光が地域住民に与えるストレスが「イラダチ」を増大させる。そのプロセスは、1.幸福感 → 2.無関心 → 3.イラダチ → 4.敵意 →5.最終レベルとなる。
観光のオーセンティシティ(本物らしさ)をめぐって、D・J・ブーアスティンはメディアによって演出され造り出されたイメージのほうが現実感を持つという「知覚のありよう」を「疑似イベント」としている。「観光客の欲求は、彼自身の頭のなかにあるイメージが、観光地において確かめられたとき、最も満足する」と、ツーリストたちがただメディアによって構成されるイメージを追認しているにすぎず、彼らの経験が疑似的で人工的なものだと考えている。
それに対しD・マッカネルは、ツーリストたちは、単に疑似イベントでは満足せずにオーセンティシティを求め、結果的には擬似的で人工的なパスティーシュ(模造品)に満ちた「表舞台」と、オーセンティシティに満ちた「裏舞台」が交差する、ねじれた空間を旅しているとする。
U・エーコは、蝋人形館ではリアリティそのものが最初にオリジナリティとして存在し、それを人形という形でそっくり再現・複製することで成り立っているが、それに対し、ディズニーランドは参照されるべき、あるいは再現・複製されるべき実在をもってはいないと言う。ディズニーランドではすべてがファンタジーであり、コピーされる実存物などないのである。そのため、擬似的 / オーセンティック、コピー / オリジナルという区別そのものが無効化される。
ポストモダニズムの諸理論によると、もはや純粋な「現実そのもの」を考えることなど不可能であって、イメージや表象の外部に世界は存在しないとされる。世界そのものがメディア化されている。観光もまた同様であり、観光そものもがメディア化されているのである。
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近代観光は、いわば近代産業主義の「イデオロギー装置」であったと言えるのであるが、同時にそれは、世界中の「見慣れぬもの」へのあこがれ、すなわち「エキゾティズム」の幻想をかき立てるものでもあった。しかし、この「エキゾティズム」は西欧の文化的優位と東洋の文化的劣位を前提としていた。
欧米人の「オリエンタリズム」に触発され、それに呼応する形でそのまなざしの対象であった現地の人びとが、逆にそこから映し出された集合的イメージ(集合的アイデンティティ)をつくりあげるさまは、バリ島観光研究等で分析され紹介されている。
19世紀末にはすでにヨーロッパにおいてもアメリカにおいても世界は征服し尽くされ、「大きな物語」としての「見知らぬ世界」、すなわち大いなる「他者性」はもうすでにほとんどなく、「エキゾティズム」は「オリエンタリズム」に触発されながら人工的につくられていった。
19世紀末から20世紀初頭にかけては、ヨーロッパにおける「伝統の大量生産」の時代であったことも、観光におけるイメージの生産と通底している。
観光に欠かすことができない場所のイメージの生産と消費は、近代の産業主義と、それを支える国民国家の創造のための政治という、近代社会の二側面の共通の底に横たわるイデオロギーと大いに関係がある。
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現代社会はあらゆる領域において「マクドナルド化」の原理である計算可能性、予測可能性等、近代合理主義の原理が支配しているために、人びとが観光に求めるような「新しくて異なるもの」などほとんどない。
観光は「マクドナルド化されていない要素とマクドナルド化された要素の適切な配合」によって洗練されるのであるが、皮肉なことに合理化を逃れようとする、あるいは合理的に対抗しようとするすべての手段もまたマクドナルド化されてしまう。結局、「ツーリズムはアーリが言うような非日常性を提供できなくなっている」のである。
たしかにブーアスティンの言うように、現代では「現実が疑似イベントにしたがう」ようになっているが、「疑似イベント」自身が多様化し個人化する現在においては、どのイメージがどの現実をつくり出し、それがどう人々に受け入れられていくのか、その過程は再帰的で流動的なのである。観光社会学の視線は観光の「偽物」性を告発する方向ではなく、闘いが行われている「場」の解明にこそ向かうべきなのである。
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ディズニーランド文化の特徴はその都市の中の人工的な「飛び地」性と関係している。ディズニーリゾートは観光地であるが、どれも都市の郊外にあり、何もない土地を人工的に造成してできたものである。特に東京など、アメリカ文化と関係の薄い文化的環境の中に突如「飛び地」としてアメリカ文化が成立しているところに特徴がある。
いまやただ空間を眺めるだけでは非日常性は得られない。観光客もスペクタルの一要素となる。これは近代がつくり出した視覚中心のまなざしの全域化であろうか、それとも視覚の先制の終わりであろうか。いずれにしても観光の中における演技的諸要素、身体感覚をともなう非日常経験がますます増大するのである。
KO NAKAMURA: 観光社会学の論点 (via akihero11)
これめちゃめちゃ面白いわ
Via akihero's note@kohashi 今年の真のノーベル平和賞受賞者は、ノーベル平和賞で米国を動けなくすることを思いついた、ノーベル賞委員会の中の人だと思うですw
–Twitter / fladdict (via termin) (via motomocomo)
うまいこと言ったw
Via ネタフルバードこれ多分、次に来るであろう市場。「ラブプラス」のシステムやARなんかと組み合わせたら破壊力は計り知れないものになりそう。
視線を追っていたのはbeBit。マウスの動きでもある程度の効果は得られるのかどうか。
初の本格的なARアプリと言うことで、日本全国のiPhoneユーザーがこぞって試し始め、中でもやはり秋葉原は活発な展開に。公開されて数日というのに、まだほかでは起きていない現象までが起き始めている。 (via AKIBA PC Hotline! Junk Blog.: セカイカメラが公開されて秋葉原で歴史的事件発生?
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ローマ帝国を滅ぼしたのは『パンとサーカスだ』とユウナリアスと言う当時の有名な詩人が言った。
現代で言うなら『飽食とテレビ』だ。
主婦が食に愛を込めなくなり、
食の価値も薄れ、
賞味期限切れの食べ物が山となって捨てられる毎日。
テレビによって文化は安直に成り下がり、
政治までが見せ物と化し、ショーアップに日の丸が切り裂かれる。
『世も末』とはこの事だ。
人間の堕落、文化の堕落が国を滅ぼす。
中国よりも、いや北朝鮮よりも早く日本は崩壊し、どこかの属国に成り下がるのかも知れない。


